Hearn

Hearn〔英語〕ハーン、ヘルン

  • 英語圏:ファミリーネーム

由来

ファミリーネームHearnは、大きく2つの起源があるとされている。

1つはアイルランド系のHearnで、もう1つはアングロ・ノルマン系を起源とするものである。

アングロ・ノルマン系

アングロ・ノルマン系のHearnの由来はフランス、ノルマンディ地方にあるルーアン(フランス語: Rouen)の近くにある集落Hairunにあると言われている。

ノルマン征服後にイギリスの入植地になり、ヘロン氏族はイギリス(スコットランド)へと渡り、ヘイロン(Heiron)、ヘロン(Heron)、ハーン(Herne)など様々なバリエーションを生んだ。

アイルランド系

いっぽうアイルランド系のHearnの由来は、「鷺(さぎ)」Heron あるいは Heroun とされており、11世紀には確認できる。一般的には長い脚を持つ背が高くて細い男性のニックネームとして派生したと考えられ、あるいはサギなどの鳥を狩る人物から派生したとも考えられている。

この姓は、アイルランド・ゲール語の3つの名前のいずれかの英語化された形であることが多い。「O’hEarain」は恐れられた者の子孫、「O’Huidhrin」は浅黒い肌の者の子孫、「Mac GiollaChiarain」は聖キアランの召使いの息子である。ヘロンという名前は、「馬の王の子孫」を意味するÓ Eachthighearnaに由来することもある。

著名人

Patrick Lafcadio Hearn(ラフカディオ・ハーン=小泉八雲)

小泉八雲の日本名で有名なラフカディオ・ハーンは、出生名が現代ギリシャ語では「パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン (Πατρίκιος Λευκάδιος Χερν)」となり、英語では「パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)」となる。

このラフカディオ・ハーンの姓「Hearn」はアイルランド由来のファミリーネームである。

八雲の母は、ギリシャのキティラ島出身のギリシャ人ローザ・カッシマティ(Rosa Cassimati)。また父はアングロ・アイリッシュ系イギリス人であるチャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn)。実兄に1849年生まれのGeorge Robert Hearnがいるが、生まれて2ヶ月後に早世している。また実弟にダニエル・ハーン(Daniel James Hearn)がいる。

八雲はギリシャ・イオニア諸島のレフカダ島(Lefkada)で生まれたため、ミドルネームにラフカディオ(Lafcadio)と名付けられた。イギリスでは「パトリック・レフカディオ・カッシマティ・チャールズ・ハーン(Patrick Lefcadio Kassimati Charles Hearn)」と呼ばれていた。レフカダ島は「リューカディア島」とも表記される。またイタリア人は「サンタ・モウラ島(イタリア語: Santa Maura)」、トルコ人は「アヤマウラ島(トルコ語: Ayamavra)」と呼んだという。島の古名は「レウカス島(Leukás)」といい、これは「白」を意味するレフコス、あるいは「白い岩」を意味するレフカタスに由来するという。

なお八雲は ギリシャ正教会で洗礼を受けアイルランドの守護聖人・聖パトリックの名前を付けられているが、後に父の故郷であるアイルランド・ダブリンで母子で過ごすうちにキリスト教の教義に懐疑的になったことからこのファーストネームをあまり好まず、むしろギリシャ生まれであることに誇りを持ち、ラフカディオを使っていたとされる。

父の母エリザベス・ホームズ・ハーン(Elizabeth Holmes Hearn)は元プロテスタントであったが、彼女は文盲でかつ英語が話せなかったため、一緒に過ごすことになったギリシャ人ローザのギリシャ正教の考え方を受け入れることができず、後にエリザベスの妹でカトリックに改宗していた未亡人サラ・ホームズ・ブレナン(Sarah Holmes Brenane)の保護下に置かれた。母のローザはまもなく精神を病んだためにギリシャに帰国したため、両親は離婚している。また父チャールズは軍医で世界各地に転勤を繰り返しており、家族一緒に過ごしたのはごく短期間であったとされる。

なお母ローザはギリシャ・キシラ島生まれのギリシャ人でありアラブ人の血も混じっていたとされ、八雲自身「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していたとされる。来日前アメリカ・シンシナティに住んでいた頃には州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかったとされる。

16歳の時にダラム大学に通っていた頃に、回転ブランコでロープの結び目が左目にあたって失明。以降写真を撮られるときは顔の右側を向けるか、あるいはうつむいたり、左手で覆ったりすることで左目が撮られないように配慮している。

成長後にアメリカでジャーナリストとして勤務していたが、明治17年(1884年)にニューオリンズで開かれた万国産業綿花百年記念博覧会で日本館の美術および教育に関する展示品に興味を持ち、日本を取材してみたいという気持ちが芽生えたのだという。明治23年(1890年)に出版社(ハーパー書店)の通信員として来日、来日直後に契約を破棄し日本で英語教師として教鞭をとるようになった。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンはたびたび「ヘルン」と呼ばれることがあるが、これは来日当初に松江の島根県尋常中学校への赴任を命ずる辞令で「ラフカヂオ・ヘルン」と表記したのが広まったものだが、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したものである。妻である小泉セツ(小泉節子)は小泉八雲の話すカタコトの日本語を「ヘルンさん言葉」と呼んでいる。

小泉セツは、出雲藩500石取りの藩士・小泉家の系譜で、代々番頭役を務めてきた。この小泉家の先祖は平泉の藤原氏とも言い(小泉一雄氏による)、松平不昧公に伊達宗村九女方子が嫁いできた時に松江に来たという(小泉一雄氏による)。ただし一般的に小泉氏は京極氏旧臣で近江出身ともいう。セツは小泉(弥右衛門)岩苔の息子、小泉(弥右衛門)湊の二女として明治元年(1868年)2月4日に生まれた。母は同じく出雲士族である塩見増右衛門の長女チエ。塩見家は役付家老で1400石取り。
小泉家は大身の武家であったが、セツが生まれる頃には没落しており、セツは生後7日で親類の稲垣家へと養女に出されている。のち士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず1年足らずで出奔したため、セツは小泉家に戻りやがて一人暮らしの八雲の家に住み込み女中として働き始めた。のち八雲はセツの婿養子として小泉姓となっている。
なお小泉湊の母は、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男・千家俊信(国学者)の娘が小泉真種に嫁いでおり、その娘に乙部治郎兵衛の息子・岩苔が婿養子として入っている。セツ自身は千家俊信の玄孫ということになる。

なお「小泉八雲」の日本名は明治29年(1896年)に日本国籍を取得した際のもので、正式な名前である。「八雲」については「いつまでも出雲を思い出すよすがの言葉」と自ら語っている。

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